子供を信じるということ。

親になる前は、映画でも実際の事件でも、無実を主張する息子の言葉を信じるお母さんの姿を見て、「うむ、母たるもの信じなくてはねっ」とよく思った。
いやまあ、そこまで重い話でなくても、お母さんは子供を信じるべきものだと思っていた。
それが母性愛だと思ったし。母の強さだとも思ったし。

でも、最近ちょっと意見が違う。

信じられる子に育てて初めて、信じることができるんだなあと。
文字にすると当たり前なことですが、でも現実は違うことが多いのだもの。

普段子供のことをよく見てもいないで、盲目に信じる母の存在が、子供をダメにすると思う。
「うちの子がそんなことするはずない」と言い張る人に限って、子供と向き合ってないと思う。

くうまの学年で、小さな事件が起きた。
ガブリエラのおやつがどこを探してもない。
絶対持ってきたはずなのに、一生懸命探しても探してもない。
影で実は、友達のキティとフィリッパがクスクスその姿を笑って見てたというもの。

どうしてばれたのかは知らないけれど、誰がやったか目星が付けられた。

キティのお母さんは、週末問いただし、キティは泣きながら「やってない」と言い張った。
フィリッパのお母さんも、週末娘に尋ねた。「やってないわ」と当然答えたらしい。
月曜日、本当にやってないならガブリエラの前でそう言ってみなさいと二人のお母さんに言われて、二人はガブリエラの前で「やってない」と言い張った。

二人のお母さんは、同じように「そう・・・」と言っただけだったけれど。
キティのお母さんは、「信じたくないけれど、やっぱりキティがやったと思うわ。自信があったら目を見て言えるはずなのに、下を向いたままだったもの。目をずっとそらしてた」と言った。
フィリッパのお母さんは「やっぱりフィリッパがやるわけないもの」と言ったのだ。

そして事件は迷宮入りしたわけだけれど。

キティはもちろん、今もまだまだ悪いけれど、ことごとくお母さんに見破られて叱られているのを見ると、安心する。頭のいい子だからそのうち、自分の道を見つけそうな気がする。
フィリッパは、ますます嘘に磨きがかかり、ダークサイドにかなり落ちてるなとよく思う。

フィリッパ親子を知って5年になるのだけれど、彼らの子供の叱り方はこう。

「それはNOよ!」
フィリッパが必ず聞いていた「どうしてダメなの?」
「私がNOと言うから、NOなのよ!」
フィリッパはいつも納得がいかない顔で終わる。

何が良くて何が悪いのか、わからないわけで。
結局フィリッパが学んだのは、お母さんの前じゃなければなにやってもOKってことだったんだろうな。

これは一つの例えであり。
フィリッパだけじゃなく、もちろん女の子だけじゃなく、男の子にも7歳にしてどうしようもない子供が出てきている。
ああ、悪い道を歩き始めちゃったんだなあと思う子は、だいたい「うちの子に限って」と盲目に子供を信じてるお母さんに育てられてる(当村比ですが 苦笑)
7年育ててきて確信を持った、最近の結論。

子供は本当に良い悪いがわからないところからのスタートで。
だから、悪気はないけれど、間違うことが多いのだなと思う。
親の仕事は、間違うたびに、どうして間違ったのかどうすべきなのかを教えてあげることなんじゃないかと思う。
可愛がるのと同じくらい大切なことで、きっとどちらも手を抜いてはいけないのだろう。
子供にわかるように教えるのは、とても頭を使う。
とても疲れるし、大変なことだけど、そう心がけてるうちに、自分の子供がどういう時に間違いやすいか、嫌でも気がつくようになってくる。
知らぬ間に、子供のことが良くわかるようになっている。
子供を知れば知るほど、「絶対」なんて言い切れなくなるんじゃないかと思う。
これに関してはあの子は大丈夫。この分野に関しては、まだまだ危ない。
こう言えるお母さんはよく見てるなと思う(自慢ですが私も言える)
「何があってもお母さんは自分を信じるだろう」という安心感よりも、
「お母さんはいつも自分を見ていてくれる」という信頼感(子供にとって緊張感でもある)、母に求められることじゃないかと思う今日この頃。
「木の上に立って見る」・・・親って文字の言わんとすることは、こういうことでしょうか。

母って、大変な仕事なんだなあとつくづく。
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by africaespa | 2008-03-13 09:38 | 子育てで思うこと。

子供と一緒に楽しむ南スペイン。


by africaespa